どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

各人の業(カルマ)が生み出した「業界」に各人が住んでいると説くブッダ

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教に「業界(ごうかい)」という言葉があります。
(ぎょうかい)と読まずに、(ごうかい)と読みます。
「業」とは、インドの言葉で「カルマ」といい、「行為」のことです。
その各人の業(カルマ)が、各人の世界を生み出す、これを「業界」といい、一人一人が各自の業界に生きているとお釈迦さまは説かれています。
業界とはどんなことか、今回はお話しします。

 

業界が違うから、話し合ってもわかり合えないことがある

 

一人一人、今まで【見てきたもの】【聞いてきたもの】【話してきたこと】そして何より【考えてきたこと】は、みな違います。
それら「業(行為)」が各人各別だから、同じものを見ても、同じには映りません。

 

こんな小噺があります。

飛騨の高山に住んでいる男と、伊豆の大島から、やってきた男が、江戸の宿屋で同宿した。
やがて二人の、口げんかが始まった。口論の争点は、「太陽はどこから昇ってどこへ沈むのか」についてであった。
飛騨の高山から来た男は「太陽は山から上って山へ沈むものだ」と主張する。
伊豆の大島から来た男は「太陽は海から登って海へ沈むのだ」と主張した。
両者は一歩も譲らない。
「山から昇る太陽を、ワシはこの目で見てきたんだ、うちの父ちゃんも見てきたし、うちのじいちゃんも見てきたんだ」と高山の男が言えば、伊豆の大島の男は「うそつくな!オレは海から昇る太陽をこの目ではっきり見てる。毎日この目で確認してきたんだ」と応酬する。どちらも、証拠がある。うそはついていない。
宿屋の主人が「何事か」と二階にあがって、ことの顛末を聞き、大笑いした。
「あんたら、ばかですなぁ。何にも知らんのですね。あのね、太陽というのはね・・・屋根から上って屋根に沈むんだよ」

これがオチなんですが、けっこう含蓄のある話です。

 

経験や学問、環境や才能が違うと、話し合っても、どうにもわかりあえないことがあります。。
話し合えば判る、というが、判るんなら戦争も裁判も要らない、よく話し合えばすむのならそうすればいいのです。なぜ話し合いが決裂して、戦争や裁判が始まるのでしょうか。

 

もしこの落語に、現代人が登場して「本当は、太陽のまわりを地球が回っているんだよ」てなことを言い出したら、 それこそ3人の男に
ばか者よばわりされるのは、目に見えています。

 

夫婦といっても、同じ屋根の下に住んではいても、生まれ育った環境は違うし、経験や才能も違います。「自分の全てを理解してくれ」と相手に要求し合ったら、もうすでにこの落語の口げんかそのものとなりましょう。

 

主観的な思い込みが、現実を受け入れさせない

 

竹内薫『99.9%は仮説』の中に、“天文学の父”ガリレオ・ガリレイの逸話が次のように紹介されています。
面白いので、文章の一部を抜粋します。

1610年の4月のこと。ガリレオはイタリアのボローニャに24人もの大学教授を集めて、自作の望遠鏡を披露しました。
期待にワクワクしながら、ガリレオは、まず彼らに望遠鏡で地上の様子をみてもらいました。
すると、どうでしょう。望遠鏡を覗きこむと、山や森や建築物など、はるか遠くにあるものが、ドーンと眼の前に映し出されます。
「これはすごい!」と教授たちはその迫力に驚き、ガリレオを称賛しました。
当時、イタリアでは、だれもまだ望遠鏡をみたことがなかったのです。
しかし、話はこれで終わりません。
つぎにガリレオは教授たちに、望遠鏡で天体をみせたのです。
すると、どうでしょう。それまではボンヤリとした光る点にすぎなかった夜空の星々が拡大され、月のクレーターまでもがはっきりみえたのです。
教授たちはまたしても驚きました。
そして、口々にこういったのです。
「こんなのデタラメだ!」
教授たちのなかには、当代きっての天文学者ケプラーの弟子、ホーキーもいました。
彼はつぎのように語っています。
「それ(望遠鏡)は、下界においては見事に働くが、天上にあってはわれわれを欺く」
つまりガリレオの望遠鏡は、地上をみる分には問題なく作動するが、天に向けるとうまく働かない代物だ、と文句をつけているのです。

どうして突然、彼らはデタラメだといいだしたのでしょうか?
当時、天上界というのは、完全な法則に支配された完璧な世界だと思われていました。
つまり、神が棲む世界です。そこでは、すべてのものが規則的に動き、美しく、統一ある姿をしています。
ですから、月に凸凹(クレーター)などあるはずがないんです。
凸凹というのは不完全ということですから。
星の表面は、キレイにのっぺらぼうじゃないといけなかったわけです。
それなのに、望遠鏡でみると、ぜんぜんのっぺらぼうじゃない!
教授たちの頭のなかには、その当時の人々が抱いていた天体の“本当の姿”みたいなのがあって、それとちがうものがみえてしまう。
だから、態度を豹変させて、“この望遠鏡はおかしい、デタラメにちがいない!”と騒ぎだしたわけです。
けっきょく、教授たちがだした答えは、地上はいいけど天上はダメ(笑)
望遠鏡の客観的な性能よりも、自分の頭のなかにある主観的な思いこみのほうが勝つんです。

 

【自分の頭のなかにある主観的な思いこみ】で、現実の判断を曇らせることはいろいろ聞こえますし、自分の中にも相当あるのを感じます。
▼店のものがなくなると、まだ犯人が決まったわけではないのに、店長が決めつめて「だから外国人をバイトに雇いたくなかったんだよ」と口にする。

▼血液型がB型に振り回された過去を持つ人が「B型の人は彼氏にしないほうがいいよ~」と友人にアドバイスする。(ちなみに私、B型)

▼ダメ男に貯金もほとんど渡してしまい、それでもなお「うん、でも彼、最後はお前だけだって言ってくれたことあったし」と目が覚めない。

赤いサングラスをかければ世の中は赤く見え、青いサングラスをかければ世の中は青く見えます。
過去の経験や環境のフィルターを通してしか、世界は見えません
一人一人が各々の業界に住まいしている、とはこのことです。

 

 

一人一人の業界に、一人一人が住んでいる

 

「仏、一音をもって説法を演説したまう、衆生類にしたがって解を異にする」とお釈迦様は説かれています。
仏(お釈迦様)が一つのお声で説法されていても、聴衆はそれぞれの業(過去にその人がしてきた行為)にしたがって異なった理解をする、ということです。

 

仏の相の一つに「広長の舌相」がありますが、仏の舌は広く長いということなのですが、これは大雄弁をさします。
仏教の教えには、巧みな例え話に思わずうなってしまうようなものがたくさんあり、私もまだ仏教を聞き始めの時に、まだ仏教の何たるかはわからないまでも、その当意即妙な譬えに深い感銘を受けたものです。
その幾つかをこの日記、メルマガにて紹介させていただいてきておりますが、そのように聞く人がつい引き込まれてしまう大雄弁をされたのがお釈迦様でした。

 

そのお釈迦様のお話を聞いている人の中でも、砂地に水がしみこむように真剣に聞く人、涙を流して感動している人もあれば、反発する人、居眠り半分で舟をこぐ人、無関心で途中で席を立つ人、いろいろあったのです。
お釈迦様が一つのことを一つの言葉で語っておられても、聴衆は一人として同じ経験、学問、才能、環境の人はありませんので、受け止め方はみな変わってくるのです。

 

私も今、こうしてブログを書いていると、そのレスポンスが感想、反論などとなって返ってきますが、「こんな受け止め方をされる方もあるんだなあ」「ここに共感されたのか」と意外なのも多く寄せられ、同じ文章を読まれてもずいぶん受け止めておられることは違うんだなあ、と日々実感しているところです。

 

こんな歌もあります。
「手を打てば 鹿は驚き 魚は寄る 茶店の女中は 返事する」
奈良の鹿公園、猿沢の池のほとり、一軒の茶店の前である人が手を「パン」と打つ。
すると鹿は「銃声か」と驚き、びくっとする。魚は「餌か」と寄ってくる。女中は「注文か」と返事する。
同じ音を聞いていても、まったく受け取るものは違います。

 

経験、環境、教育、習慣、男女、これら十人十色なら、どうしてぴたっと同じ価値観がもてましょう。異なる世界に一人一人が生きているのです。

 

 

阿頼耶識に蓄えられた業が生み出す業界

 

あなたは「一目ぼれ」の経験はありますでしょうか。
一目見て、ビビッときた。目と目が合ったときに、落雷が落ちたような衝撃、そのときから恋におちた。。。そんな経験。
そんな人を「運命の人」と呼びますが、その運命は、神や霊が引き合わせたのではなく、ひとえに「己の業による」と仏教では説かれます。

 

一目見ただけで好きになる、から「一目ぼれ」というのですが、実は「一目」ではないのです。
というのは、過去にその人と声がそっくりな学校の先生がいて、優しくしてもらった、とか、あこがれていた漫画のキャラクターにどこか表情が似ている、とか、そう思わせた「何か」が好きになった本人にあるからです。
それが思い出せないことがほとんどなので「理由なく好きになってしまった」としか言いようがないのですが。

 

嫌いなのも、またしかり。
私なら小学校の時、屠殺場でニワトリを殺していた、いがぐり頭のおじさんの顔が忘れられず、今でも街で通り過ぎた人がなぜか不快に思えて、「なんですれ違っただけなのにそんなふうに思うんだろう」と思い返してみると「あ~、あの時のいがぐり頭のおじさんと似てるんだ」と思い出すほど、自分の中ではしみついてしまっているようです。

 

これなんかは自覚できる例ですが、自覚できないで、「好き」「嫌い」と分別しているものの方がずっと多いでしょう。
たとえば自分はA美さんを一目見てビビッときた。
ところがそのA美さんを友人が見ても、まったくときめかない、ということはあるのです。
「そんな人いたっけ?」で終わってしまう。
その友人にはA美さんを好きになるような業を持っていなかったということです。

 

過去、その人の思ったことや行動したことが「業(カルマ)」の力となって、その人の心の蔵【阿頼耶識(あらやしき)】に蓄えられており、様々な縁に触れるたびに運命を引き起こす、とお釈迦様は説かれました。

 

その心の蔵には、自分のとうに忘れた過去の行為も一切が記録されており、それどころか生まれる前の過去世の行為も含めて、何百年、何千年と集積しているのだとお釈迦様は説かれています。

 

だから兄弟といっても双子といっても、過去から蓄えてきた業は同じではなく、したがって求めるものも嫌いなものも各人各様となっていくのは、当然のことなのです。

 

時計の音も、金持ちは、”チョッキン、チョッキン、チョッキンせい”と聞えるが、貧乏人には、”シャッキン、シャッキン、シャッキンどうする”と催促に思われる。

 

その人その人を取り巻いている世界は、その人の業が生み出した世界なので、「業界」と仏教ではいわれるのです。

 

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