なぜ仏教・親鸞聖人は、すべての人間は罪悪深重であると説くのか

親鸞聖人は「すべての人間は悪人である」と言われています。
歎異抄には『罪悪深重』とそれを説かれています。
罪が深く悪が重いのが人間、との断言です。
なぜすべての人が悪人なのか。
今回は人間の犯す罪悪について事例を挙げながらお話しします。
ホモ・サピエンスの罪悪は深い
情の欠片もない残酷な人を「獣(けだもの)!」と罵ったり、「男は狼だから気をつけなさい」と言われたりしますが、それは狼や獣に失礼というものです。
彼らは自分が食べる分しか狩りませんし、自然の生態系を壊すような大量殺害はしません。
他の動物を絶滅させた前科があるのは「人間」だけです。
ニューヨークのブロンクス動物園では以前、アフリカ・ゾーン大型類人猿舎の鉄柵の向こうに大きな鏡がはめ込まれ、動物たちを見に訪れた当の人間の上半身が鉄柵越しに映るようになっており、看板に「世界で最も危険な動物」と書かれてあったそうですが、ホモ・サピエンス(人間)の過去の罪状を知れば、そのレッテルは当然といわねばなりません。
『サピエンス全史』でハラリ氏は、人類が進歩していった道程に、おびただしい動物たちの死骸が散らばっていることを暴露しました。
人類は約4万5000年前、初めてオーストラリアに到着しましたが、彼らはそこにいた大型動物の90%をあっという間に絶滅させてしまいました。
およそ1万5000年前にアメリカを征服しましたが、征服の過程でアメリカに存在していた大型動物のうち約75%を絶滅させました。
すでに1万年前に人類は、地球上に存在していた大型陸生動物の50%を絶滅させてしまっています。
一方この数千年で、世界中に多くの子孫を残し、広く繁栄した動物もあります。
それは家畜化された動物たちです。
今日では、地球上に存在する全ての大型動物のうち90%以上が家畜です。
(ここでいう”大型”とは、少なくとも数キログラム以上の体重を持つ動物のこと)。
種の繁栄を、頭数という基準で測るとすれば、ニワトリと牛と豚は動物たちの中で最も成功した存在です。
しかし家畜化された動物たちを、成功と呼べるでしょうか。
牛やニワトリでも、複雑な感覚や感情を有しています。
子は親の愛情を欲し、親は子を愛しく思い、子は遊びを通して生活の術を学び、親がその子を育てることに精魂を傾けている姿は人間と同じです。
そんな家畜を、生まれたと同時に狭いケージに閉じ込め、ワクチン・薬物・ホルモン剤・農薬・自動餌やり機を用いて太らせ、注射で人工的に受精させ、子が生まれればすぐ母親と引き離し、効率的に繁殖させるのが、人間がしている「畜産」です。
結果として、生物種として牛や豚やニワトリなどの家畜は、世界で最も成功した動物となりましたが、同時に、最も悲惨な動物となったのです。
動物の目に映る人間という種は、民族浄化、大量殺人などで悪名高きヒトラーやポルポトのような独裁者であり、鬼や悪魔であり、人間流に言えばまさに「獣(けだもの)!」と罵られてしかるべき存在です。
幸福の科学の人から、動物は魂のステージが低いが、この世で魂を磨けば、より高い魂のステージ「人間」に生まれることができる、と聞いたことがありますが、人間とは、そんな魂を磨いた存在ではないことは、多くの動物を絶滅させてきた歴史が証明していますし、過去を振り返らなくても、現代の畜産を見れば、それは明らかです。
旧約聖書にも創世記の一節に「神は彼らを祝福し、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』『生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である』と言った」とあります。
このような聖書や幸福の科学の生命観は、一言で言ってしまえば「人間の驕り」です。
人間を凌駕する強い動物、生命体と遭遇しなければ、その驕りは消えないのでしょう。
いずれにせよ、人間とはそんな徳のある高貴な存在ではありません。
親鸞聖人は『罪悪深重の衆生』
罪の重い、業の深い、恐ろしくも悲しい存在だと説かれています。
おびただしい殺生をする人間の罪悪
仏教に説かれている罪悪には、窃盗、ウソ、不倫、悪口などと並んで「殺生」が挙げられます。
「殺生」とは動物を殺すことです。
窃盗やウソや不倫は、法律でも、道徳的にも罪悪とされますし、犯してしまえば発覚を恐れ、びくびくしますが、殺生の場合、そもそも罪悪だと受け止めている人は少ないようです。
「弱い者が強い者に食べられる、それは自然界の摂理だから殺生は悪くない」と言う人もあります。
しかしその主張が通るなら、権力や武力を持つ強い者が弱い立場の人間を虐殺するのも、自然界の摂理だから悪いことではない、と民族浄化や大虐殺を肯定することになってしまいます。
「生きていくには殺生は仕方ないではないか」という意見もあります。
しかし「仕方ない」と「罪ではない」は違います。
殺されていく動物たちは、自分や自分の家族が殺されていくのを「人間たちはそうしなければ生きられないのだから仕方ない、許そう」とは思えないでしょう。
人間の都合で「悪くない」と勝手に判断しているだけです。
「遊びや面白半分でする無益な殺生はよくないが、自分たちが食べる分をいただいているのだから」と言う人もありますが、これとて「だから悪くない」とはいえませんよと、釈迦は説かれているのです。
「命をいただいているという感謝を忘れず、ありがたくいただくのが大事」という人もあります。
感謝して食べれば、罪が精算されるとでも思うのでしょうか。
これも釈迦は、殺生罪には違いありませんよ、と言い切られます。
いかなる理由をくっつけようとも、死にたくない命を、こちらの都合で一方的に殺める殺生の罪は恐ろしい罪ですよ、と釈迦は明言されています。
ある大学生のゼミのグループが鳥を卵から孵して、雛から育て、やがて食す、という実体験をする研究をしました。
調理する日が近づいたある日のこと。
A君から「今はまだ鳥を殺すべきではない」という意見が出て、ゼミ生全員が研究室で話し合いました。
A君は、鳥を一番可愛がり、誰よりも率先して小屋の掃除をしていたので、気持ちはよく分かります。
「いま卵を育てているから、卵を産み終わってから‥‥」
「ペットとして飼っていたんではないんだぞ」
「自然死してからでは」
「自然死を待っていたら、病気が怖いから、食べられなくなる」
そんな意見の応酬があって、最後は多数決となりました。
「屠る(殺す)べきではない」が2人で、残りのゼミ生全員が屠る方に手をあげました。
私たちが普段目にする肉は、すでにブロックで切りそろえられたものですから、 殺生をしているという自覚がありません。
ゼミ生たちは実習で、鶏がまな板の上で鳴き叫ぶ姿、首を絞められ、ばたばたもがく姿を目の当たりにして、肉を食べるということはこういうことなんだ、と強く自覚したことでしょう。
この研究ゼミで学んだこととしてゼミ生たちは「命をいただいているという感謝を忘れてはいけないと思った」「無益な殺生はあってはいけない」などの感想を出しました。
しかしそれは表向きの回答で、やはり彼らは、たとえ法律や道徳では咎められなくても「これが罪でないはずがない」と心の中でつぶやいたのではないでしょうか。
殺生の罪の厳粛な重さを実感する機会が現代人にはなくなってきていますが、目の当たりにすれば、誰しも「殺生罪を犯している恐ろしい自己」を痛感します。
釈迦は殺生罪を「人間の、どうにもならない、恐ろしく、悲しい業」と説かれています。
罪悪感なく生きている人間
水芭蕉で有名な尾瀬でサ-クルの合宿に行ったときのことです。
洗濯の際「市販の洗剤を使わないでください」とペンションの人から言われました。
地域の人が水芭蕉の咲くきれいな湿原を守るために、自然に害を及ぼす市販の洗剤は使わないようにしているとのことでした。
この時感じたことは、私たちは「無知」が原因で、知らず知らず自然を破壊したり、周りに迷惑をかけたりしているのだろうなということでした。
知り合いがしばし車いす生活になり、半日くらいサポートしていた時にも同じことを感じました。
ふだんなんとも思っていなかったちょっとした段差にも難儀したり、市民会館の階段に車いす用のスロープがあったのが有り難かったり、貴重な経験をしました。
こういった経験をしなかったら、車いすの人がどれほど難儀しているか、ずっと無知でしたし、それに無知だったら、町で見かける車いすの人への気遣いはできないと感じました。
最近、高齢者疑似体験の教材が大学の授業などで導入されているそうです。
視覚障害のゴーグルをつけて白内障の理解を深めたり、ひざサポーターをつけて歩いてみて、高齢者が駅の階段などでいかに危ないかを体感してみたりするというもので、その理解が深まれば、お互い支え合えるようになってくるのだと思います。
無知が原因で罪を重ねているのは、世界の飢餓問題についてもいえます。
いま、世界では飢餓が原因で1日に4~5万人の人が亡くなっていますが、そのうち、全体の7割以上が子供たちです。
よく北朝鮮やシリアに先進国が「人道的に許されない」と非難声明を出しますが、これだけ飢餓で命を落とす子供たちがいる世界の状況も、人道的にあってはならないこととして、先進国が率先して話し合わねばならない課題に違いありません。
ところがなんと世界の飢餓は、第一の先進国であるアメリカの国民がダイエット食品に費やしている金額を全部そこに回せば、世界の他の地域の飢えた人全員を養うのに必要とされるに十分な金額となり、一気にこの問題は解決だそうです。
日本にいる私たちもアメリカを責められません。
日本では年間1800万トンを食料廃棄していますが、この食料廃棄率は、アメリカを上回ります。
この日本の食料廃棄は途上国の5000万人分の年間食料に匹敵するそうです。
自覚がないだけで「生きる」ということは、おびただしい罪を重ねていることといえるかもしれません。
一種の鈍感さで、人間は平穏な日常を送っている存在なのでしょう。
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