仏教で説く五欲の一つ、「財欲」とは

仏教で教えられる五欲の一つに『財欲』があります。
「金がほしい」「家がほしい」「カッコいい車がほしい」「かわいい服がほしい」と金や物を求める心です。
今回は財欲の実態についてお話しいたします。
財欲の奴隷と化す人間の姿を説く仏教
「金の切れ目は縁の切れ目」といわれますが、私の知人で、昨年の夏にリストラにあった人があります。
奥さんは再就職に向って夫を支える、と当初は言っておられたそうですが、最近その奥さんから離婚話を切り出されたそうです。
人は金があるときはもみ手で近づいて来るが、金がないと手のひらを返したように冷たく接する、といわれます。
ホテルのボーイ、旅館の仲居さんが頭を深々と下げますが、こんなとき、自分に敬意を表して頭下げているかと思ったら大間違いで、自分が旅館に落としていくお金に頭を下げているのです。
チップとかお心付けとか渡す額が多いとサービスは違うし、帰る時のお辞儀の角度まで違うところからもそれはわかります。
金のトラブルでどれほど大事な人間関係が損なわれていることでしょう。
友人でも、恋人でも、金の貸し借りは怨恨を残すものです。
遊びも、旅行も、美容も、ファッションも、グルメも、デートも、名声も、人気も、買い物も、ビジネスも、アイデアも、宣伝も、まず先立つものはお金でしょう。
不和も、病気も、家のローンも、過労も、ストレスも、あの恥も、この屈辱も、全ては金が無いせいか。
「金さえあれば全てがうまくいく」「金があれば、万事解決なのに」「金さえあれば、金さえあれば」と呪文のようにつぶやいて、やがてやってはいけないことまでしでかしてしまうのです。
財欲が露出する遺産相続
小学生のころ、近所の友人の部屋で遊んでいた時、居間で大人の怒鳴り声と金切り声、ひきつづき何か物が壊れる音が聞こえてきました。
それまでの人生で、大人が感情をあらわにして、怒鳴りあう場面というのを私は見たことがなかったので、驚きましたし、今もよく覚えています。
どうもそれは遺産相続をめぐる兄弟夫婦の話し合いだったようなのです。
当時の私はそんな大人たちを浅ましく、醜く感じたので、自分は大人になってもそんなことで無様な醜態はさらすまいと思いましたし、その思いは今も変わっていません。
しかしこれは自分がまだ子供もなく、責任のない立場だから、こんなことも言えるんだろうなとも思います。
子供もいて、大きくもなれば教育費も年々高くつく、もしこれだけの金額があれば子供を私立大学にでも行かせてやることもできる、あの憂鬱なローンも早く返済できる、とあれこれ考えていると、ここで頑張らなければ、なんとしても、と躍起になってしまうのでしょう。
「あいつがいなければ」「こいつさえいなければ」と遺産相続で、兄弟親戚同士、骨肉相食む争いがおきるのは、この財欲が引き起こす惨劇です。
恐ろしいからといって財欲にとらわれず、お金を無視して、生きることはできません。
10年くらい前でしたか、縄文時代の生活をするとかで、山にこもって獣や魚を狩って、野菜を作って自給自足の生活をするという人がありましたが、時々近くの商店に日用品を買いに来ると村の人が言っているニュースを見ました
人生はお金がすべてではない、とはいうものの、ないと困るのも、争いになるのも、お金です。
金は血液と一緒で、なければ生きていけません。
どうしても要るものです。
そして生半可な気持ちでは手に入らないものでもあります。
これは自活すれば誰も知らされることでしょう。
金が生きる目的ではないと言いながらも、金のことで頭を悩ませ、気力、体力の全てを注ぎ込んで、なお足りぬと悩んでいるのが人類の実態なのです。
自分さえ儲かればいいという心が財欲の本性と説く仏教
貪欲(欲の心)の本性は『我利我利亡者』である、と釈尊は説かれました。
我利我利亡者とは、自分さえよければ人はどうなってもいい、という心です。
その貪欲の一つ『財欲』により、私たちはどれだけの人を苦しめ、傷つけ、殺していることか知れません。
一例を見てみましょう。
カラシニコフ自動小銃。悪魔の銃です。
この銃は、その軽量から10歳の子供も使うことができるのです。
もちろん子供用だから、といって、おもちゃではありません。
この機関銃の開発により、軍隊は年端も行かぬ少年が兵士として計算できるようになりました。
アフリカの紛争地域で、この銃で殺傷された人は数え切れません。
実はこれら紛争地域の多くが、石油やダイヤモンドの産地です。
産地となる国々では、石油やダイヤモンドの利潤をめぐり、政府軍、反政府軍の終わることなき紛争が続いてます。
一方、石油やダイヤモンドを消費するのは、先進国の我々です。
ダイヤの宝石が欲しいという先進国民の財欲が戦争の原因と知れば、私たちは地球の裏側の国々の紛争に無関心ではいれません。
「戦争の原因を知りたければ『誰が得をしたか』考えてみればその答えがわかる」とよく語られます。
民族間の紛争で、家族を殺されたり、家を失って難民になったりして誰も得をした人はいない。
得をしたのは、その国のごく一部の権力者と、武器や戦闘機を売って儲けた軍需産業、そして戦争の後、ビジネスにやってくる欧米の企業です。
どれだけ市民団体が運動を起こしても、国連が介入しようとしても、戦火は拡大するばかりで、人間の財欲はとどまるところを知らず、アフリカに次々と悲劇をもたらしています。
財欲によって酔生夢死すると説かれる仏教
『財欲』の実態をあらわした川柳に『泣きながら良い方を取る形見分け』とあります。
着物や家具など、親の遺品を兄弟で分けるとき、布巾で目を押さえながらも真剣に物色している、その人間の実態が歌われています。
江戸の昔から人間の財欲はあさましく、親の死別の悲しみより勝るほどの恐ろしいものであったようです。
今も同じです。
葬式の席に座っているときから、頭の中は遺産相続の算段を始め、やがて兄弟や親戚同士、骨肉相食む争いがおきます。
ひどいのになると、死なぬ前から、病人の隣室でそんな揉め事をおこす。
その怒号を壁越しに聞きながら「こんな人生なんなのか」「何のために必死にかき集めてきたのか」と臨終の床で嘆いています。
何も持たずに地上に出てきて、人と争ってまでかき集め、必死に番をして、最後は全部置いて、番人の役目終わって、次の人に番を譲る。自分は何も持たずに地上を去る。これでは、何のためのこの世に出てきたのか。。。。
これでは人間に生を受けた喜びなどありえません。
これを仏教では『後生の一大事』といいます。
この『後生の一大事』を解決して、絶対の幸福になり、財やモノが「あってよし」「なくてよし」の安心、満足の境地に到るのが、仏教の目的です。
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