親鸞聖人の教えられた絶対の幸福とは何か

絶対の幸福とはどんな幸福か
本やインターネットで仏教、とりわけ親鸞聖人を学ぼうとされて、「絶対の幸福」という言葉を知り、何だろうと疑問に思われた方も多いと思います。
「絶対の幸福」という言葉自体は現代の言葉ですから、親鸞聖人が言われた言葉ではありません。
親鸞聖人は「絶対の幸福」のことを「摂取不捨の利益」とか「無碍の一道」と言われています。
「摂取不捨の利益」とは、“がちっと摂め取って永遠に捨てない幸福”のこと。
「無碍の一道」とは、“一切が障りとならない唯一絶対の世界”のこと。
いずれも絶対変わらない幸福、絶対の幸福のことです。
不完全な人間が絶対の幸福になれるのか
親鸞聖人は90年の生涯、「どんな人でも絶対の幸福になれる」と宣言され、絶対の幸福とはどんな幸福か、を懇切丁寧に教えられました。
絶対の幸福があると言うと誰しも「不完全な人間に絶対の幸福になれることなどあるか」と反論します。
親鸞聖人も生涯そのような非難を受け続けられた方でした。
おそらくそう主張する人は、何が起きても動じず、欲や怒りにも振り回されることのない、澄み切った悟りの心境が絶対の幸福だと思っておられるのでしょう。
それは絶対の幸福の誤解です。
もしそのように煩悩が消滅する心に「なれるはずがない」と言われるのでしたら、それはその通りです。
私たち人間に煩悩が滅することはありません。
煩悩とは、私たちを煩わせ、悩ませるもの。
ひとりの人間に108の煩悩があることから「百八の煩悩」といわれます。
そのいくつかを言うと、
・思い通りにならないとすぐ腹を立てる心、
・幸福な人をねたみ、不幸な人をクスクス笑う心、
・そんな自分なのに人からは尊敬されたい一杯の心、
そういう心が煩悩です。
この煩悩は私たちの本性ですから、無くなるはずもなく、減るものでもありません。
絶対の幸福とは、煩悩を減らしたり、無くしたりした心ではないのです。
絶対の幸福とは、破闇満願の身になること
絶対の幸福の境地を、仏教の言葉で「破闇満願(はあんまんがん)の身になる」ともいわれます。
「破闇満願」とは「闇が破られ、願いが満たされる」こと。
「闇」とは「無明長夜の闇」のことで「暗い心」のこと、「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、分からない心」のことです。
親鸞聖人は「無明長夜の闇を破し 衆生の志願を満てたもう」と書かれています。
「長夜」とあるのは、しばらくすると夜が明けて朝が来るような、一般的な夜ではない、果てしなく真っ暗な夜、ということです。
生まれる前、過去世からずっと真っ暗で、現在も暗く、死んだ後も真っ暗で続いていく永遠の生命、これを親鸞聖人は「無明長夜の闇」と言われています。
80年から100年でなくなるのは、肉体です。
肉体は何回も生まれたり死んだりを繰り返し、輪廻転生しますが、一貫して変わらない永遠の生命が、闇に閉ざされていて、親鸞聖人はその真っ暗な心を「三途の黒闇」と言われています。
その闇が生きているただ今、阿弥陀仏の本願力によって完全に明るく晴れ渡ることを、親鸞聖人は「無明の闇を破る慧日なり」「三途の黒闇ひらくなり」と教えられています。
暗い心がハッキリ破れ、「この身になるための人生だったのか」と絶対の幸福に心が晴れ渡ります。
絶対の幸福になると、煩悩はどうなるか
「無明長夜の闇」が破れても、煩悩は変わりません。
欲、怒り、うらみ、ねたみなどの煩悩は、絶対の幸福になっても、そのまま何も変わりません。
『有漏の穢身は変わらねど こころは浄土に遊ぶなり』
有漏とは煩悩、煩悩に穢れた身体は少しも変わらないことを親鸞聖人は『有漏の穢身は変わらねど』と仰っています。
しかしそんな煩悩の固まりの私が、そのままの姿で、
『こころは浄土に遊ぶなり』
心は浄土へ往って遊んでいるように楽しく愉快な心になる、
と絶対の幸福があることを明言されています。
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